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昭和天皇と皇室の食卓、災害対応の歴史を紐解く-天皇、震災、食事とは?関東大震災から令和の時代へ:昭和天皇の災害対応と食生活

1923年の関東大震災、昭和天皇は被災地に寄り添い、救済活動を主導。自ら被災地を視察し、巨額の寄付を行った。その姿勢は現代の皇室へと受け継がれ、記録が今も残る。さらに、昭和天皇の料理番が語る質素で温かい食事、開戦への葛藤、そして現代の皇室による慰霊。震災99年目の慰霊祭と、天皇家の揺るぎない国民への想いを追う、貴重なドキュメント。

昭和天皇と皇室の食卓、災害対応の歴史を紐解く-天皇、震災、食事とは?関東大震災から令和の時代へ:昭和天皇の災害対応と食生活

📘 この記事で分かる事!

💡 関東大震災での昭和天皇の迅速な対応と、皇室による被災者支援の歴史を解説します。

💡 昭和天皇の戦争への関与について、資料に基づいた客観的な視点から考察します。

💡 昭和天皇の食卓に焦点を当て、質素ながらも工夫が凝らされた食事の秘密を探ります。

それでは、本日は昭和天皇に関する様々なエピソードをご紹介します。

震災時の対応から食生活にいたるまで、昭和天皇という人物像に迫っていきましょう。

大正時代の震災と昭和天皇の対応

震災時、昭和天皇は何を?被災者救済と復興に尽力した行動とは?

視察・指示・寄付!皇室の災害対応原点を作った。

関東大震災発生時、昭和天皇は皇太子として、内閣への指示や自ら被災地を視察するなど、迅速に対応されました。

皇室全体での被災者支援の様子も詳細に見ていきましょう。

関東大震災100年 そのとき、皇室は…昭和天皇は馬に乗り被災地視察 宮内公文書館に資料残る:東京新聞デジタル
関東大震災100年 そのとき、皇室は…昭和天皇は馬に乗り被災地視察 宮内公文書館に資料残る:東京新聞デジタル

✅ 関東大震災発生後、昭和天皇は被災地を視察し、貞明皇后の発案で医師らによる「巡回救療班」が組織されました。

✅ 皇室では、東久邇宮稔彦王の子どもである師正王ら3皇族が亡くなり、皇居内も大きな被害を受けました。

✅ 被災者への寄付金として1000万円が下賜され、貞明皇后は被災者を見舞う巡回救療班の活動を支援しました。

さらに読む ⇒東京新聞 TOKYO Web出典/画像元: https://www.tokyo-np.co.jp/article/266630

昭和天皇をはじめ、皇室の方々の迅速な対応と、被災者への寄り添う姿勢に感銘を受けました。

特に、皇后さまの発案による巡回救療班の活動は、非常に意義深いものだったと思います。

1923年9月1日、関東大震災が発生し、皇太子であった昭和天皇は、内閣への指示だけでなく、自ら被災状況を視察されました

地震発生時、天皇は皇居から赤坂離宮へ避難し、余震の中執務を続け、山本権兵衛内閣の親任式を行い、首相に対し被災者への適切な対応を指示しました。

震災直後には、被災地を視察し、救済のために皇居前広場などを開放し、復興資金として巨額の寄付も行いました。

貞明皇后の発案で巡回救療班が組織され、被災者の救済に尽力しました。

皇室の被災者への対応は、現在の上皇ご夫妻、天皇皇后両陛下へと受け継がれています。

宮内庁宮内公文書館には、当時の活動を伝える資料や写真が多数残されており、皇族の被害状況、昭和天皇の視察記録、被災者への寄付金の決定などが記録されています。

また、東久邇宮稔彦王の子どもなど3皇族が亡くなり、皇居内も大きな被害を受けました。

昭和天皇は9月15日に上野などを視察し、18日には本所被服廠跡など下町方面へ、10月10日には横浜・横須賀へ足を運んだ。

貞明皇后は上野公園で被災者を見舞い、巡回救療班の宣伝用ビラも作成されました。

この皇室の災害対応は、現代の皇室の災害対応の原点となりました。

いやー、素晴らしいですね。あの当時の天皇陛下が自ら被災地を歩き、国民を励ましたという事実は、現代のリーダーシップにも通じるものがありますね。寄付も巨額だったと聞きますし、見習うべき点が多い。

昭和天皇の戦争への関与

昭和天皇は開戦にどう関わった?その新事実は?

軍のシナリオで開戦へ。作戦にも影響。

昭和天皇の戦争に対する関与について、様々な資料に基づき検証していきます。

最高指揮官としての役割、そして、その判断がどのように戦争の帰趨に影響を与えたのかを考察します。

大元帥・昭和天皇』山田朗 その1 ――最高指揮官の行動をたどる

公開日:2021/01/22

大元帥・昭和天皇』山田朗 その1 ――最高指揮官の行動をたどる

✅ 本書は、昭和天皇の軍務と戦争関与の実態を、資料に基づき具体的に解明している。天皇が戦争を何も知らなかった、あるいは常に反対していたという説を否定し、最高指揮官としての具体的な活動内容を明らかにしている。

✅ 天皇は、軍の最高指揮官として命令決裁、作戦指導、士気高揚などを行った。しかし、中国戦線拡大や対米開戦といったより高い次元での判断は失敗であった。また、満州事変などの軍の独断行動を容認し、規律の低下を招いた。

✅ 昭和天皇は、皇太子時代から大元帥となるための教育を受け、大正天皇の病気療養中に代理で業務を行った。満州事変では、当初は不拡大方針を支持したものの、最終的には関東軍を鼓舞し、その侵略を結果的に容認する姿勢を示した。

さらに読む ⇒うちゅうてきなとりで出典/画像元: https://the-cosmological-fort.hatenablog.com/entry/2021/01/22/%E3%80%8E%E5%A4%A7%E5%85%83%E5%B8%A5%E3%83%BB%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%9C%97_%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91_%E2%80%95%E2%80%95%E6%9C%80%E9%AB%98

戦争における昭和天皇の役割について、客観的な視点から分析されている点が興味深いです。

天皇が単なる象徴ではなく、軍事戦略にも関与していたという事実は、衝撃的でもあります。

昭和天皇は、当初は開戦に慎重だったものの、軍の提示した新たなシナリオによって開戦へと向かったことを、山田朗氏の研究が明らかにしました。

昭和天皇は、単に形式的な発言をするだけの大元帥ではなく、大本営御前会議で活発に意見を述べ、作戦に影響を与えていた事実も指摘されています。

この研究は、戦後の日本社会における天皇制に対する見方や、戦争責任に関する議論に一石を投じるものでした。

なるほどね。天皇陛下が、単なる象徴ではなく、軍事戦略にも関わっていたというのは、興味深いですね。歴史的視点から見ると、色々な側面が見えてくるもんだね。

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昭和天皇の料理番が見た、質素で温かい食卓。旬の食材を活かした献立、食への感謝、そして国民への思いやり。その食卓には、天皇陛下の人間性が溢れていた。