阿修羅・原、ラグビーからプロレスへ!?~その波乱万丈の人生とは?~阿修羅・原の伝説とは!?
ラグビー界からプロレス界へ!元日本代表・原進の波乱万丈な人生。スクラムの鬼から阿修羅・原へ、その熱い闘志と伝説のタッグチーム「龍原砲」の物語。
💡 ラグビー選手として日本代表に選ばれ、イングランド戦で活躍した
💡 プロレスラーに転身し、天龍源一郎とのタッグチーム『龍原砲』を結成した
💡 晩年は故郷の長崎で静かに過ごすなど、波瀾万丈の人生を送った
それでは、まず彼のラグビー選手としての活躍からご紹介していきましょう。
ラグビー選手としての活躍
原進はどんなスポーツを経験しましたか?
柔道、相撲、ラグビー
素晴らしいですね!ラグビー選手として活躍されていたんですね。

✅ 元ラグビー日本代表の阿修羅・原は、イングランド戦でのスクラムで、体重差のある相手チームを押し込み、日本の軽量FWの奮闘を促したことでチームの士気を高め、日本代表の健闘に貢献した。
✅ この試合は、イギリスでも大きく取り上げられ、日本代表の健闘ぶりが称賛された。
✅ 阿修羅・原はこの試合を「燃え尽きた」と振り返り、その後もラグビー選手として活躍したが、膝の故障もあり、1976年に引退。1977年にプロレスラーに転身し、天龍源一郎とのタッグチーム「龍原砲」を結成するきっかけとなった。
さらに読む ⇒阿修羅・原がラガーマンとして光り輝いていた頃 – 週刊ファイト出典/画像元: https://miruhon.net/127535まさに燃え尽きたという言葉がぴったりですね。
原進は、長崎県出身の1947年生まれ。
中学時代は柔道、高校時代は相撲に打ち込み、高校2年からラグビーを始めました。
東洋大学卒業後、近鉄に入社し、ラグビー部に所属。
1970年に日本代表に選出され、同年3月22日のブリティッシュ・コロンビア州代表戦で初キャップを獲得しました。
1971年のイングランド代表戦では、スクラム強化のためにプロップへコンバートされ、日本代表の不動のプロップ選手として活躍しました。
近鉄では1974年度に全国社会人ラグビーフットボール大会と日本選手権で優勝に貢献しました。
1976年には日本人として初めて世界選抜メンバーに選出されました。
しかし、チームの弱体化や自身の業務都合により、1977年にラグビー選手を引退し、近鉄を退社しました。
いや~、ラグビー選手時代も凄かったんだな。まさに伝説の男って感じがするよ!
プロレスラーへの転身
原進はラグビーからプロレスに転向!どんな覆面レスラーでデビューした?
覆面レスラーでの試験試合を経てデビュー
プロレスラーに転身されたんですね。

✅ 阿修羅原さんは、国際プロレスで活躍したプロレスラーで、1978年にデビューし、ジュニアヘビー級王者として人気を博しました。
✅ その後、全日本プロレスに移籍し、天龍源一郎とのタッグ「龍原砲」を結成し、全日本の黄金期を支えました。
✅ 1988年に全日本を解雇された後、1991年にSWSで復帰し、WARを経て1994年に引退しました。
さらに読む ⇒伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」出典/画像元: http://iga23.iga-log.com/%E8%A8%83%E5%A0%B1/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%80%80%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85%E5%8E%9F龍原砲!懐かしいですね。
ラグビー引退後、原進は草ラグビーチームのコーチを務めました。
1977年11月29日に国際プロレスに入団し、プロレスラーに転向。
覆面レスラーとして試験的に試合を行った後、1978年6月29日に寺西勇を相手に素顔で正式にデビューしました。
同年7月3日に海外武者修行に出発し、カナダ・カルガリーではファイティング・ハラを名乗り、英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得しました。
その後、国際プロレスで活躍し、1994年10月29日に引退しました。
プロレスラーとしての活躍も凄かったみたいだね。
阿修羅・原として
阿修羅・原はどんなタッグチームで有名?
龍原砲
SWSの旗揚げ1周年記念興行で天龍さんとタッグを組まれたんですね。
公開日:2023/10/17

✅ 1991年8月9日のSWS旗揚げ1周年記念興行で、天龍源一郎はタッグパートナーに阿修羅・原を望んでいた。しかし、原は借金問題で全日本プロレスを解雇され、行方が分からなくなっていた。
✅ 天龍番記者たちは原を探し出し、天龍に報告。天龍は原が生きていることを知り、連絡を取り続けた。しかし、SWSでは内部抗争が激化し、すぐに原を復帰させる状況ではなかった。
✅ 1991年にSWSは北尾光司の暴言による゛八百長発言゛で内部対立が表面化し、天龍が社長に就任。内部抗争は棚上げされ、谷津嘉章とキング・ハクのナチュラルパワーズが結成されるなど、新たな展開を迎えた。
さらに読む ⇒伊賀プロレス通信24時出典/画像元: https://igapro24.com/2020/03/13/sws-4/あの時、天龍さんは阿修羅・原さんとタッグを組むのを本当に熱望していたんですね。
原進は、プロレスラーとして阿修羅・原のリングネームで活躍しました。
国際プロレス崩壊後は全日本プロレスに移籍し、天龍源一郎との出会いから、伝説のタッグチーム『龍原砲』を結成しました。
阿修羅・原は、ラグビーの経験を生かし、プロレスでもそのパワーと闘志で観客を魅了しました。
SWSのことはよく知らないんだけど、すごいドラマだったんだね。
伝説のイングランド戦
原進はどんな選手だった?
俊足のプロップ
イングランド戦での活躍は本当に伝説ですよね。
公開日:2019/11/19

✅ 元ラグビー日本代表の原進は、イングランド戦での活躍が特に有名で、スクラム最前線のプロップとしてチームを支えました。特に1971年のイングランド戦では、わずか11日の練習でスクラムを組むことになり、強豪国のスクラムに拮抗するなど、日本のスクラムを支える存在でした。
✅ 原進は、ラグビー界からプロレスラーに転身し、阿修羅・原として活躍しました。プロレス界では、「蹴りが当たってないのに痛い表情はできない」と、顔面を突き出すなど、プロレスラーとしての仕事に真摯に取り組む姿勢を見せました。
✅ 原進は、ラグビー選手時代からプロレスラー時代まで、周囲を喜ばせることを信条とし、その生き様は周囲の人々を魅了しました。しかし、経済的な事情からプロレスラーを引退し、晩年は故郷で静かに暮らしていました。
さらに読む ⇒FRIDAYデジタル出典/画像元: https://friday.kodansha.co.jp/article/67117?page=1わずか11日の練習でプロップに転向して、イングランドの巨漢FWと対峙したって、本当にすごいですね!。
原進は、182cm・87kgという恵まれた体格を持ち、100mを11秒7で走る俊足も持ち合わせていました。
特に1971年のイングランド戦では、わずか11日の練習でプロップに転向し、スクラムでイングランドの巨漢FWと対峙しました。
この試合は日本ラグビー史に残る名勝負として語り継がれ、原進の活躍は日本ラグビー界に大きな影響を与えました。
やっぱり原さんってすごい!ラグビー選手としてもプロレスラーとしても、本物の男だな!
伝説の男、原進
原進はどんな人だった?
周囲を笑顔にする人
阿修羅・原さんが亡くなったのは本当に残念です。
公開日:2015/04/28

✅ 元プロレスラーの阿修羅原さんが、4月28日に肺炎のため68歳で亡くなりました。
✅ 原さんはラグビー選手からプロレスに転身し、天龍源一郎との「龍原砲」で人気を博しました。
✅ しかし、私生活の乱れや素行の問題により、全日本プロレスを解雇されるなど、波乱に満ちた人生を送りました。
さらに読む ⇒ハフポスト - 日本や世界のニュース、会話を生み出す国際メディア出典/画像元: https://www.huffingtonpost.jp/2015/04/28/obituary-ashurahara_n_7166990.html波乱万丈の人生だったんですね。
原進は、ラグビー選手として、そしてプロレスラーとして、常に周囲を喜ばせることを第一に考えていました。
その生き様は、多くの人々に感動を与え、今も語り継がれています。
晩年は故郷の長崎で静かに過ごしていました。
原進は、2015年4月28日に68歳で亡くなりました。
阿修羅・原さん、お疲れ様でした。
阿修羅・原は、ラグビー選手として、そしてプロレスラーとして、多くの人々に感動を与えた、まさに伝説の男ですね。
💡 ラグビー選手時代は、日本代表としてイングランド戦で活躍した
💡 プロレスラーに転身し、天龍源一郎とのタッグチーム『龍原砲』を結成した
💡 晩年は故郷の長崎で静かに過ごし、2015年4月28日に68歳で亡くなった