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南三陸町の防災庁舎、震災の記憶を未来へ?(東日本大震災、津波、震災遺構)旧防災対策庁舎の保存と、震災の教訓を伝える取り組み

2011年、東日本大震災の津波は南三陸町を壊滅させ、防災対策庁舎は町の象徴となった。職員の壮絶な避難と犠牲、そして震災遺構としての庁舎の保存を巡る葛藤を描く。13年の時を経て、町は遺構を未来へ語り継ぐことを決意。夜間照明で鎮魂の灯を灯し、過去の教訓を胸に、復興への道を歩む人々の姿を伝える。

南三陸町の防災庁舎、震災の記憶を未来へ?(東日本大震災、津波、震災遺構)旧防災対策庁舎の保存と、震災の教訓を伝える取り組み

📘 この記事で分かる事!

💡 東日本大震災で被災した南三陸町の旧防災対策庁舎の歴史と、震災遺構としての役割を紹介します。

💡 津波襲来の瞬間を捉えた写真と、そこから得られる教訓について詳しく解説します。

💡 復興への道のり、震災遺構の保存を巡る町民の葛藤、そして未来への希望を伝えます。

本日は、東日本大震災における南三陸町の旧防災対策庁舎に関する記事をお届けします。

この庁舎は、震災の記憶を伝える重要な場所として、現在も様々な議論を呼んでいます。

未曾有の津波と防災庁舎の悲劇

南三陸町を襲った津波、何人の町職員が犠牲に?

約20人以上の町職員が犠牲。

東日本大震災で甚大な被害を受けた南三陸町。

旧町防災対策庁舎は、多くの職員が避難を呼びかけながらも津波に飲み込まれました。

遠藤健治氏の手記を通して、当時の状況と、災害への備えの重要性を振り返ります。

宮城県南三陸町で43人が犠牲となった防災庁舎の被災を語り継ぐ
宮城県南三陸町で43人が犠牲となった防災庁舎の被災を語り継ぐ

✅ 2011年の東日本大震災で南三陸町の旧町防災対策庁舎で被災した元副町長の遠藤健治氏の手記。津波の状況や、屋上での避難、その後の復興に向けた活動が語られています。

✅ 遠藤氏は、避難所設営、罹災証明の発行、復興計画策定などに携わり、退任後は被災体験を講演で伝えています。その中で、災害への備えの重要性を訴えています。

✅ 旧町防災対策庁舎は、震災の記憶を伝える場所として、2031年3月までに存廃が決定される予定です。遠藤氏は、多くの人が訪れ、自然災害の恐ろしさを感じる場所となることを願っています。

さらに読む ⇒くらし×防災メディア「防災ニッポン」読売新聞出典/画像元: https://www.bosai.yomiuri.co.jp/biz-article/6640

遠藤氏の手記からは、当時の緊迫した状況と、復興への強い想いが伝わってきます。

災害の恐ろしさを語り継ぎ、教訓を未来へ繋ぐことの大切さを感じました。

2011年3月11日、東日本大震災による巨大津波が宮城県南三陸町を襲い、町は壊滅的な被害を受けました

地震発生後、避難を呼びかける防災無線が繰り返される中、町民566名が死亡し、310名が行方不明となるという甚大な被害に見舞われました。

津波の脅威を伝える象徴として、防災対策庁舎は、最後の最後まで住民への避難を呼びかけ続けた町職員たちがいた場所であり、3階建ての建物の屋上さえも津波に飲み込まれるほどの被害を受けました。

庁舎には約30人の職員がいましたが、無事が確認されたのはわずか8人であり、その多くが防災担当者でした。

行方不明となった職員の中には、町を支える30代の中堅職員や10代、20代の若手職員も含まれており、復興への大きな障害となりました。

なるほど。震災遺構として残すことは、単なる過去の出来事の記録ではなく、未来への教訓として非常に重要ですね。遠藤氏をはじめとする関係者の尽力に敬意を表します。

津波襲来の瞬間と教訓

津波から逃げ遅れた職員の、後悔の念とは?

油断と、庁舎避難の安易な考え。

津波襲来の瞬間を捉えた写真を通じて、その恐ろしさを再認識します。

写真に写された職員の体験談から、私たちは何を守り、何を学ぶべきか。

加藤信男氏の言葉から、津波に対する意識を高める重要性を考えます。

アーカイブ】 東日本大震災 津波襲来の瞬間 悔恨の数こま : 言語の杜で迷ったら
アーカイブ】 東日本大震災 津波襲来の瞬間 悔恨の数こま : 言語の杜で迷ったら

✅ 東日本大震災の津波襲来の瞬間を、南三陸町の防災対策庁舎屋上で撮影した男性職員の体験談。津波の恐ろしさを伝える写真として、町によって一部が公開された。

✅ 男性職員は、津波の危険を過小評価し、逃げ遅れた結果、激流に巻き込まれる。しかし、仲間の助けで一命を取り留め、津波の恐ろしさを改めて認識した。

✅ 残された写真には、犠牲になった同僚の姿も写っており、男性職員は写真を通じて、津波からの避難の重要性を訴え、防災への意識を高めることを願っている。

さらに読む ⇒言語の杜で迷ったら出典/画像元: https://oinking.blog.jp/archives/1440583.html

写真の生々しさに言葉を失います。

逃げ遅れたという加藤氏の言葉は重く、防災意識の重要性を改めて痛感します。

自然災害の脅威を忘れず、日々の備えを怠らないようにしなければなりません。

津波襲来の瞬間を捉えた写真には、屋上でアンテナにしがみつく職員や、手すりに必死にしがみつく職員の姿が写されており、その状況の過酷さを物語っています。

当時、企画課で広報を担当していた加藤信男氏は津波の襲来を写真に収めましたが、自らの油断と逃げ遅れを後悔しました。

激しい揺れの中、カメラを手に取り、庁舎に避難すれば大丈夫だと安易に考えていたことが、この悲劇につながったと語っています。

1960年のチリ地震津波の教訓から、町は海抜1.7mに3階建ての防災対策庁舎を建設しましたが、2011年の東日本大震災では、当初の津波予想6mを上回る15.5mの津波が襲来しました。

庁舎は浸水し、屋上に避難した職員や住民のうち、43名が犠牲となりました。

いやー、写真見たら、本当に恐ろしいね。あんな状況で写真撮るって、すごい精神力だわ。でも、その写真が、私たちに警鐘を鳴らしてくれるんだから、大切にしないといけないね。

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津波の爪痕を伝える南三陸町の震災遺構。保存決定までの葛藤と、未来への希望を照らす夜間点灯。震災の教訓を胸に、町は復興への道を歩む。